プロレスを知らない人でも「ジャイアント馬場」の名前は知っている。それほどまでに、この人が日本のプロレス界に残した足跡は巨大だった。
1999年1月31日、享年61歳。この記事は不謹慎なゴシップ記事ではない。プロレスを愛し続けた一人の男の、充実した61年を振り返るリスペクト記事だ。
ジャイアント馬場 プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 馬場 正平(ばば しょうへい) |
| 生年月日 | 1938年1月23日 |
| 出身地 | 新潟県三条市 |
| 身長 | 209cm |
| 体重 | 135kg |
| デビュー | 1960年(プロレス転向) |
| 前職 | 読売ジャイアンツ投手 |
| 所属団体 | 日本プロレス → 全日本プロレス(創設者) |
| 得意技 | 16文キック・32文ロケット砲・鉄の爪 |
死因:肝臓がんに伴う多臓器不全
ジャイアント馬場の死因は肝臓がんに伴う多臓器不全だ。1998年後半から体調不良が続き、試合出場数が減少していた。それでも馬場は全日本プロレスのプロモーターとして最後まで現場に関わり続けた。
1999年1月、都内の病院に入院。同月31日に息を引き取った。享年61歳。訃報は日本中を悲しみに包み、プロレスファンだけでなく「テレビ越しに馬場を見てきた国民全員」が昭和プロレスの象徴を失ったことを実感した。
晩年まで愛し続けたプロレスへの情熱は、全日本プロレスという団体として今日まで受け継がれている。
アメリカ・NWAで証明した「世界レベルの実力」
馬場の凄さをひとことで言うなら、日本人として初めてアメリカプロレス界で本物のスターとして認められた選手という点に尽きる。
もともと馬場は読売ジャイアンツのピッチャーだった。肘の怪我でプロ野球を断念し、1960年にプロレスへ転向。翌年にはアメリカへ渡り、当時世界最大のプロレス団体「NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)」の各テリトリーを転戦する。
当時、日本人がアメリカのプロレスで「主役」として通用することは皆無に等しかった。しかし馬場は209cmの巨体と温かみのあるキャラクターでアメリカのファンを魅了。NWA世界王者のパートナーとして扱われるほどの信頼を勝ち取った。
この人脈が後に全日本プロレスを「世界に開かれた団体」にする原動力となる。ハーリー・レイス、テリー・ファンク、ニック・ボックウィンクルといった世界トップのNWA選手を日本に呼べたのは、馬場がアメリカで積み上げた信頼あってこそだ。
全米各地を転戦した「武者修行」の中身
馬場がアメリカで転戦したのはテキサス、フロリダ、カナダなど複数のテリトリー。当時のアメリカプロレスは各地域に独立した団体が存在し、NWAがそれらを束ねる形だった。馬場はその各地で人気を獲得し、「ジャップ(Japanese)ではなく一人の大スター」として扱われた。日本人に対する偏見が根強かった時代に、実力とキャラクターだけで道を切り開いた点は特筆に値する。
得意技・必殺技
①16文キック
馬場の代名詞。当時の靴のサイズ表記「16文(約30cm)」から名付けられた大足キック。209cmの長い脚を水平に振り出し、相手の顔面や胸部を蹴り抜く。巨体ながらそのキックは正確で、観客席には「どすっ」という重い音が響いた。晩年まで現役で使い続けた生涯の代名詞技だ。
②32文ロケット砲(ジャンピングニーパット)
体重135kgの巨体が空中に跳び上がり、膝を相手の顔面へ叩き込む技。「32文」は16文の倍という意味で、32文ドロップキックとも呼ばれる。馬場独自のスタイルで放たれるこの技は、全日本プロレスのリングで幾度もフィニッシュを決めた。
③鉄の爪(アイアンクロー)
フリッツ・フォン・エリックが世界的に広めた頭部掴みの締め技。馬場は極端に大きな手のひらを活かし、相手の頭部をがっちりと掴んでダメージを与えた。あの巨大な手に頭を掴まれたら本当に逃げられない——そんなリアリティがあった。
世界の大型レスラーとの比較:馬場はどこが違ったのか
馬場と並び称される大型レスラーといえばアンドレ・ザ・ジャイアント(フランス出身・224cm)とブルーザー・ブロディ(アメリカ出身・196cm)だ。全日本プロレスにはこの2人が定期的に参戦し、馬場との試合は毎回黄金カードとして機能した。
| 選手名 | 出身 | 身長 | 体重 | スタイル | 馬場との関係 |
|---|---|---|---|---|---|
| ジャイアント馬場 | 日本 | 209cm | 135kg | 技術・カリスマ・経営 | ― |
| アンドレ・ザ・ジャイアント | フランス | 224cm | 235kg | 怪力・圧倒型 | 全日本の常連、友好関係 |
| ブルーザー・ブロディ | アメリカ | 196cm | 130kg | 野獣型・暴走型 | 全日本の常連、大人気外国人 |
| スタン・ハンセン | アメリカ | 193cm | 130kg | パワー型・ラリアット | 全日本の大黒柱外国人 |
アンドレは純粋な「巨人の怖さ」で圧倒するタイプ。ブロディは野性的なカリスマで観客を熱狂させた。ハンセンはラリアット一発で試合を終わらせるパワーの化身。それぞれが別の魅力を持っていたが、「リングの上もリングの外も一流」だったのは馬場だけだ。選手として試合しながら全日本プロレスを30年近く経営し続けた人物は、世界広しといえども馬場以外にいない。
全日本プロレス創設とテレビ・スポンサーの関係
1972年、馬場は力道山の弟子仲間だった猪木と袂を分かち、全日本プロレスを旗揚げする。資金的な支柱となったのは、テレビ朝日(当時:日本教育テレビ)との放映権契約だ。
当時のプロレス中継はゴールデンタイムに放映される一大コンテンツだった。猪木の新日本プロレスが日本テレビ系列と組んだのに対し、馬場の全日本はテレビ朝日系列で放送。この「二大テレビ対決」がプロレスブームをさらに加速させた。
スポンサー収入が安定したからこそ、馬場はNWAトップ選手を日本に招聘できた。「試合の質へのこだわり」が収益を生み、収益がさらに質の高い試合を呼ぶ好循環を作り上げた。プロモーターとしての馬場は、経営的にも一流だった。
全日本プロレスの旗揚げから馬場の死去(1999年)まで、約27年間にわたって日本プロレス界の一翼を支え続けたのは、この経営基盤があってこそだ。
ジャイアント馬場の名言とエピソード
「プロレスは本物だ」
馬場が生涯を通じて発し続けたメッセージ。ショービジネスと揶揄されることもあったプロレスを、馬場は正面から「本物の格闘技・スポーツである」と語り続けた。その姿勢が、全日本プロレスが「品格ある団体」として評価されてきた礎となっている。
「一番大事なのは、お客さんを楽しませること」
馬場は派手なパフォーマンスや乱闘よりも、リングの中の「本物の試合」にこだわり続けた。観客を楽しませることが自分の使命だという信念は、プロレスラーとしてだけでなく、プロモーターとしての馬場を象徴する言葉だ。晩年になっても「試合を見てもらうこと」への情熱は変わらなかった。
まとめ:ジャイアント馬場が日本プロレスに残したもの
ジャイアント馬場の死因は肝臓がんによる多臓器不全だった。しかし、馬場が残したものは死に方では語れないほど大きい。
- アメリカ・NWAで日本人初の「本物のスター」として認められた先駆者
- 16文キック・32文ロケット砲という、永遠に語り継がれる技の創造者
- アンドレ・ブロディ・ハンセンら世界の強豪と戦い続けた30年間
- 全日本プロレスを通じてテレビ・NWA・スポンサーの三角関係を構築した経営者
馬場正平という男は、日本プロレスの礎だ。これからプロレスを見始める方にも、ぜひ一度、馬場の試合映像を観てほしい。
📺 全日本プロレスの名勝負を映像で観るなら
馬場、アンドレ、ブロディ、ハンセンの伝説的な試合をはじめ、最新の新日本プロレスも楽しめるABEMAプレミアムがおすすめ。初回2週間無料で試せる。
📱 ABEMAプレミアムで新日本プロレスを観る →
馬場正平、その軌跡──野球選手から世界王者へ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1938年 | 新潟県三条市で生まれる |
| 1955年 | 読売ジャイアンツに入団(投手) |
| 1960年 | 肘の故障でプロ野球を断念、力道山にスカウトされプロレス入り |
| 1963年 | 渡米。NWAフロリダ地区などで修行、外国人レスラーと互角に戦う |
| 1965年 | 帰国、日本プロレス界のトップへ |
| 1974年 | 全日本プロレスを設立(日本プロレスから独立) |
| 1974年 | NWAインターナショナルヘビー級王座を獲得 |
| 1999年 | 1月31日、肝不全により逝去。享年61歳 |
プロ野球選手からプロレスラーへ──普通では考えられないキャリアチェンジが、昭和プロレスの歴史を作った。
身長209cm、体重135kg──「大きさ」が武器だった時代
| 比較対象 | 身長 |
|---|---|
| ジャイアント馬場 | 209cm |
| 日本人男性平均 | 171cm |
| NBAセンター平均 | 約210cm |
| アンドレ・ザ・ジャイアント(伝説のライバル) | 224cm |
「馬場が歩いてくると、本当に別の生き物が来た感じがした」という証言が当時の観客から多く残っている。現代のプロレスはインターネットで世界中の映像が見られるが、当時の観客にとって馬場の「大きさ」はリングに立つまで実感できなかった。その登場の衝撃は、今の時代では想像しにくい。
なぜ馬場は独立したのか──全日本プロレス設立の真相
1972年、日本プロレスは内紛により崩壊寸前になっていた。猪木が「クーデター」を起こして解雇され、新日本プロレスを設立。翌1973年には馬場も日本プロレスを離脱し、1974年に全日本プロレスを旗揚げする。
馬場がNWA(全米レスリング連盟)と強い繋がりを持っていたことが、全日本の大きな強みだった。NWAとは当時の「世界プロレス界の盟主」ともいえる組織で、馬場はNWAの認定王座を日本に持ち込む独占的な権利を得た。これにより全日本は「本物の世界王者が来る団体」として権威を確立した。
猪木の新日本プロレスが「格闘技路線・ストロングスタイル」を打ち出したのに対し、馬場の全日本は「王道プロレス・技術とドラマ」を軸に展開。2つの団体の「路線対立」が昭和プロレスの黄金時代を作り上げた。
ウッシが馬場を知ったのは「アポー」から
正直に言う。俺が物心ついた頃には、ジャイアント馬場はもうこの世にいなかった。
1999年1月31日没。俺がリアルタイムでプロレスの面白さを知る前の話だ。だから「馬場がどれだけすごかったか」は、後から映像や本で学んだものが大半だ。
では馬場の「存在感」を最初に感じたのはいつか。
関根勤さんのモノマネだ。
「アポー」
このひと言だけで誰もが馬場を想像できる。関根勤さんが「ジャイアント馬場のモノマネ」として披露する、あの独特のイントネーションで「アポー(Apple=リンゴ)」と言う姿。俺が子どもの頃、バラエティ番組でこれを何度も見た。
馬場を生で見たことはない。でも「アポー」は知っていた。それが俺にとっての馬場の最初の記憶だ。
浦安鉄筋家族にも出てきた
さらに言うと、漫画「浦安鉄筋家族」にもジャイアント馬場がキャラクターとして登場している。ギャグ漫画らしく独特のテンションで描かれているのだが、「子どもがプロレスラーの名前を知る」入口として、漫画やモノマネは相当大きかったと思う。
インターネットもYouTubeもない時代、プロレスの情報は「テレビ」「雑誌」「人の噂」しかなかった。関根勤さんのモノマネは、馬場というレジェンドを笑いを通じて次世代に伝えるすごいコンテンツだったんだと、大人になってから気づいた。
十六文キック──馬場にしか使えない、サイズだけが武器の技
馬場の代名詞といえば「十六文キック(16文キック)」だ。
「十六文」とは靴のサイズの単位で、馬場の足のサイズは16文(約42cm)とも言われた。その巨大な足をまっすぐ相手の顔面に叩きつける。技としての複雑さはゼロ。ただ「でかい足で蹴る」だけだ。
しかしこれがリングで炸裂すると、観客は沸いた。なぜか。
馬場だからだ。
プロレスの技は「誰がやるか」で意味が変わる。スタン・ハンセンのラリアットが恐ろしいのは「ハンセンが振ってくるから」だし、猪木の延髄斬りが決まるのは「猪木の説得力があるから」だ。十六文キックも同じ。209cmの馬場が振り上げた足が顔面に来る──それだけで技が完成していた。
「プロレスはキャラクターが技に命を吹き込む」という本質を、十六文キックほど純粋に体現した技はないかもしれない。



コメント